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大湊神社

支部名 坂井郡支部
神社名 大湊神社
境内社名
旧社格 郷社
郵便番号
鎮座地 福井県坂井市三国町安島23-15-1
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 お獅子祭
神輿渡御
宮司 松村典尚
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 事代主神
少彦名神
天照皇大神
伊邪那岐神
伊邪那美神
応神天皇



由 緒

 創立の年月不詳。
白雉年間(650~)の勧請と伝え延喜式内の古社である。
往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、祭神安島浦三保大明神が現在の陣ヶ岡の地松ヶ原の岡にて於て霊験を顕し夷賊を退治されたという。
此の事が後日文武天皇の叡聞に達し大宝元年(701)2月20日三頭の勅使が当地に下向され、3,700余石の社領を寄進された。
これより弓矢の神として崇め諸人が参拝祈願の際に弓矢を奉納する様になった。
殊に海上守護の神としても仰がれ、当浦や三国港等に寄港する船舶は必ず参詣し船の危難除に神前の矢羽を願い受けて海上安全を祈願したという。
文治2年(1186)の秋、源義経が主従と共に奥州へ下降に際し当地に止宿して参拝し家臣亀井六郎重清の兜一領を奉納し一門の武運と海上安全を祈願した。
永禄年間(1558~)朝倉義景は一門の祈願所に定めて参拝し社領を加増した。
天正年中(1573~)迄は社家7軒で社務が執り行われてきたが織田信長の兵火にかゝり社殿は焼失し社領も没収された。
このことから慶長年間(1596~)まで毎年2月20日より10日間陣ヶ岡で神主や村役人が集り会場に向って怨敵退治の「二タ手の矢」の神射式が行われてきたが、神主等が無禄になり7家の社司の内6家までが他の職に就いて特殊神事は中絶した。
しかし古老の伝では「ヤヤノオカカノカドサシテ シュー」と一声を唱えて矢を放つ神事は天保の頃(1830~)まで細々と続けられたという。
第2代福井城主松平忠直は当社の由緒等を調べ、社殿の造営と20石の社領を寄進し領内大社14社の内の祈願所に定めた。
代々藩主の崇敬も篤く社運は隆昌し社務も復興した。
嵩村を御旅所として神領十ヶ村を各村送りでする神幸祭は「お獅子さま」で親しまれる春の御渡り神事等郷内の文化の中心であった当社は、明治8年2月10日旧敦賀県に於て郷社に列せられ、同41年4月26日幣帛供進神社に指定された。
同45年6月8日同浦道間瀬垣内にあって天照皇大御神・伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る無格社大神宮及び品陀別尊を祀る境内社の八幡神社を合併合祀。

相殿 楊瀬神社
 式内社である当社は、天正年間(1573~)大破し復興の途が立たず大湊神社に合祀されたという。
その宮跡をヤナギ屋敷と呼んでいる。
此の屋敷の傍にどのような旱魃にも涸れない大井戸があり大湊神社の御膳水となっていた。
この縁から堂川とも称した。
またこの地に神坐石という石があり往昔は大湊神社神輿渡御の節は駐輦されたと伝えている。
宮地からは鳥居・燈籠などの破片が掘り出された。
このような旧跡の遺物や口碑を調査の上明治9年2月楊瀬神社の称号を賜った。
 社宝の安島浦三保大明神寄進状は大宝元年で御神徳の往昔の故実を記し、元和7年(1621)松平忠直の寄進状には安島・梶・崎・宿の4浦と平山・西谷・嵩・覚善・滝谷・米ヶ脇の6村の神領等が記されている。
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