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八幡神社

支部名 南越支部
神社名 八幡神社
境内社名 神明神社、白山神社、稲荷神社、幡生神社
旧社格 郷社
郵便番号
鎮座地 福井県越前市朽飯町21-33
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 獅子返し
宮司  
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 天萬栲幡千幡比賣命
譽田別尊
熯速日命

由 緒

 社伝によれば往古は架幡神・応神天皇・服部連祖神の三柱を祀る服部郷の総社で、国内神名帳には正五位八架神と出ている。
創立の年月は不詳であるが允恭天皇(412~452)の御代熯之速日命(ひのはやびのみこと)の12世神孫麻羅宿祢の後裔、服部連(むらじ)が織部司(おりべのつかさ)に任ぜられ当地に下向し、郷民織部等を総領した。
この時地名を服部郷と改め、熯之速日命(ひのはやびのみこと)を八架神に合祀して鎮守としたのが起源とされる。
 その後顕宗天皇(485~487)の御代百済国奴理使主の後孫阿久太子の弥和をはじめ機織に長じた織姫たちが渡来し、養蚕と絹織の技術を郷民に教え産業を興した。
この絹織物は貢物として都に上納され、知名度は高まり機織業は繁栄した。
一説には村名を百済氏と唱えたこともあるという。
而して機織の祖神天萬栲幡千幡比賣命が祀られた。
郷民をはじめ世々の国司・地頭も総社氏神と尊崇し信仰も深く神地を寄進。社領70余町という。
奈良神代の神亀3年(726)頃八架神の神宮寺として朽飯寺が創建されたという。
文治元年(1185)平氏滅亡と共に源頼朝に追われた舎弟の三河守源範頼が同3年当地に落ちのび、東庄境の岡谷に居城し当社を信仰した。
弓矢・太刀を始め軍器を奉納し、これまでの八架神を八幡神と改め正八幡宮として源氏の氏神を尊崇した。
範頼は越前三位道盛郷の息女日吉姫を室とし、建久4年(1193)天引部山に七堂伽藍を建立した。
その年範頼は他界し日吉姫は追善のため出家して浄円禅尼となり、亡君の遺言によって持仏の阿弥陀如来の壇像を、機織伝来の由緒に因み真奈蛮(お香)を入れた苧桶に納めて本宮に安置した。
神亀3年(726)以後33年毎に開扉されてきた古い御神体に代り、この尊像が新しく開扉されることになった。
浄円禅尼は建永元年(1206)他界した。
東庄境の浄円寺(元浄円庵)は範頼と浄円禅尼の菩提寺てある。
浄円禅尼の他界後豊饒時頼が北国を巡国した際岡谷の浄円庵に立寄り、朽飯の吉祥坊より古記録を見せられ感嘆して百町歩の田地を寄進し、社殿・僧坊32宇が建立される等大いに隆昌した。
室町時代の初期に十王像、文安2年(1445)の文書に朽飯寺のことが初見され、明応4年(1495)に大般若経600巻の納経、大永6年(1526)経筒等の埋納があり極めて充実した時代であった。
天正3年(1575)織田信長の将監滝川一益による一揆討伐によって神領は剥奪され兵火により堂社・僧坊は悉く焼失した。
天正6年(2528)頃から再建が始まり文久3年(1863)の「祭礼図絵馬」に見られる社殿配置が完成するのは文政8年(1825)本殿が再建された以降のことである。
明治維新には神仏分離により社僧や別当を廃止し、社名を八幡神社と改称、明治12年8月郷社に列せられ、同年12月27日境内に禁制札を設置した。
現在の境内地の配置は同13年以後の整備によるものである。
同41年8月16日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
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