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大瀧神社

支部名 南越支部
神社名 大瀧神社
境内社名 八照神社(奥院)、巌乃神社(下宮)、護国霊社、氏子祖霊社
旧社格 県社
郵便番号
鎮座地 福井県越前市大滝町13-1
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 お下り(奥院~下宮 10月11日)お上り(下宮~奥院 10月13日)神事
33年目毎に(本開帳)50年目毎に(中開帳)の大祭・権現太鼓・松坂音頭
宮司 上島晃智
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 国常立尊
伊弉那諾尊
伊弉那美尊

由 緒

大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で明治元年まで正一位小白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領70余町、日野川以東の村落48ヶ村を氏子とする国内有数の大社であった。
その創始は社伝によると、推古天皇の御代(593)大伴連大瀧の勧請に始まると伝えられ次いで鎮護国家法師で白山を開き越の大徳として知られた泰澄大師が元正天皇の命を受け国家安泰疫病鎮護の為、養老3年(719)当地に来り既に霊山と仰がれていた大峰山(大徳山)に登り17日の参籠、祈願をこめた後、地主神として岡太川の上流に祀られていた紙祖神岡太神社(式内論社)を御前立とし国常立尊、伊弉諾命の二柱の神を主祭神として配し十一面観音を本地佛として、山上山下に社殿堂宇を建て、霊場を開き別当寺として、大徳山大瀧寺を建立社僧を置いて神事を掌らしめる一方護符や写経用紙を確保する為製紙の保護発展に努めるに及んで社運著しく隆興した。
特に鎌倉時代には堂塔伽藍は立ち並び48坊を有するまでに至り社僧6・700を擁する一大勢力を有した(国内神名帳参照)。
その後興国2年(1341)新田勢と共に足利の軍に抗し兵火に罹り一時衰頽したが室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く、同一族の祈願所となるや再び興隆、宗教上においても軍事、経済上においても名実共に最大の勢力をもつに至った。
それにつれて当社の山城である大瀧城は5つの出城も出来難攻不落を誇ったと伝えられる。
かくて年中の神事も70余度、殊に3月の八講、9月の仁王講など春秋の大祭礼には上宮(奥ノ院本宮)より下宮(里宮)までいつも神幸がなされ、競馬、流鏑馬、湯の花の神事など行われ、参拝者は遠近を問わず引きも切らない有様であった。
然し織田信長一揆征伐の際、滝川一益によって大瀧城は落城したので48坊と言われた社域の堂塔はことごとく焼き尽くされ一時は全く衰退したものの、秀吉徳川代々の保護もあり特に松平氏は大いに社殿を再興した。
内でも天保14年(1843)改築された本殿は八棟造に隙き間もなく施された彫刻の精巧さ、又屋根の形態は現在知られている神社社殿のなかでは最も複雑な型をもっており江戸末期の代表的建築である。
更に福井藩主秀康以来歴代の奉賽は欠けることなく崇敬の実を示されている。
明治元年、社号を大瀧児(おおたきちご)神社と改め、同8年12月郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社と改称。
同22年には山上奥の院の末社の内天照大神、春日・八幡社を1社(春日神社)に統合合祀し、水分神を摂社岡太神社に次いで明治41年山上(奥の院)の別山鎮座八坂神社(須佐能男命)を境内社に合祀八照宮と改称。
昭和3年11月13日本社大瀧神社の社歴を案じて県社に列せられた。
昭和59年5月下宮本殿拝殿が重文に指定されたその記念事業と、平成の御大典の記念をかね下宮の本、拝殿屋根の葺替え及び神門、廻廊、奏楽殿の造営を行い平成3年7月完成同4年5月竣工祭を行う。
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