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足羽神社

支部名 福井支部
神社名 足羽神社
境内社名
旧社格 県社
郵便番号
鎮座地 福井県福井市足羽上町108
電話番号 0776-36-0287
FAX番号
御神徳
主な祭典 輪くぐり祭(夏越の大祓)
宮司 馬来田善敬
URL http://www.asuwajinja.jp/
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 継體天皇
阿須波神
生井神
福井神
波比岐神
綱長井神

由 緒

 社伝によると、継体天皇は応神天皇六世の皇孫で近江国高嶋郷三尾野というところに御降誕され、御名を男大迹王、又は彦太尊と称されて、御父は彦主人王、御母は振媛と申され垂仁天皇皇孫で、皇子は、この御母の里高向郷(丸岡町)でお育ちになり、御慈深く叡智に長じ、御徳の高い御方に成長された。
 当時越前の国は、雨水が溢れ流れて田畠等も作れず、人の住むにも限られた処しか無い国であったので男大迹王は大層憐れに思われて、足羽山に浄地を卜して御社を建てて大宮地の霊を鎮祭して神に誓い、地の理を調べて今の日野、足羽、九頭竜の三大川を作り三国に水門を開き諸水を海に落され越前平野が出来上ったという。
この大土木工事は継体天皇が越前に居られた間の最も大きな御業績であり、ようやく農業も盛んになったばかりでなく、川を利用して舟で荷を運べる様になった。
その他、道を通じ人々の居住を定め耕種、養蚕、製紙、採石の技術、その他諸産業興隆の道を教えられて人家繁栄の土地と成り、今に伝えられているのは、全て継体天皇の御恩恵によるもので、昔より越前開闢の祖神と称え崇め尊ばれて来た。
時恰も武烈天皇が崩御されて皇嗣が居られなかったので諸大臣が相談し、大連大伴金村等が男大迹王を天皇として、御迎えに参り、御年五十八歳で遂に河内国樟葉宮にて二十六代天皇に即かれた。
 天皇は越前の国を離れられるにあたり、この土地を慕い、又後に残す人々の事を心配される余りに、「永く此の国の守神になろう」とおぼしめして、自ら御生霊をこの宮に鎮め、御子馬来田皇女を斎主として後事を託して都へ出発された。
媛は天皇の霊を中央に大宮地の霊を左右に配祀し、阿須波神の御名より、足羽宮と称え奉る事になった。
足羽群、足羽川、福井等の名も皆相殿神の名に起縁していると伝えられている。
 ゆえに代々の朝廷が大いに尊崇の念を現せられ世々の将軍、国主等からも厚い尊敬を受けている。
創祀御鎮祭の年を紀元として毎五十年に勅許宣命並に御宸筆を受け大祀を執行するのを定例にしていた。
このため仁孝天皇の宸筆「大宮地之霊」の題字は旧国宝にされていたが戦争で焼失している。
社領も足羽山から旧社村に及び広大な御厨地、神田地が置かれていた。
その後、戦国時代の混乱により、現域の社地を残すだけとなったが、代々の国主を始め国中の人々の信仰を得て現在まで伝えられ、御創立以来千五百年の歴史と天皇御自創という誉高い社格と伝承を有する神社である。
当社の累代社家からは、足羽(牧田)敬明・住夏父子を、江戸時代中期に輩出している。
 敬明・住夏父子は、六国史のうち、特に『続日本紀』以下の五国史の注釈研究をなし、本県の国学史をみる上で、看過できない。
なかでも、わが国唯一の『三代実録』の注釈書である『三代実録故事考』を大成していることは特筆されるべきであろう。
 敬明は蔵書家で、その文庫を足羽文庫と称したが、相つぐ橋南の大火で、烏有に帰した。
 現在は、同家の出身画家、愛岳の作品群がこれに代る。
当社は近世中期、松平氏の庇護を受け、社家町を形成するほどに繁栄していた。
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