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清瀧神社

支部名 大野勝山支部
神社名 清瀧神社
境内社名 厳島神社、松尾神社、菅原神社、稲荷神社、八幡神社
旧社格 郷社
郵便番号
鎮座地 福井県大野市清龍124-15
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典
宮司 十時宏行
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 大國主命
大國魂命
事代主命
天照皇大神
一言主命

由 緒

 創立年代不詳。
社伝に「応永五年(1398)に大野郡大野町亀山山嶺に鎮座され、歴代の武家・庶民の信仰が篤かったが、詳細を記した文書がない」と、亦、『略縁記』(安政五年戌午=1858=四月、社職・飯山采女頭)に「この神社は、往昔、亀山の麓に御鎮座されていたが、天正元年(1573)に織田信長公が越前を征して、国郡すべてを幕下に所属させた時に、金森五郎八長近公が大野郡を受領した。長近公は、亀山に城を築くに当って、清龍神社を蛭子山(大野郡大野町清龍)に遷し奉った。以後、代々の城主は“氏神”として御尊敬、最も篤かった。又、隔年に大祭(御山渡り)を執行すること今に至るまで怠ることがない。云々」と記してある。
金森長近公は、黒印地領、社殿の新築、改築、修繕等と祭礼の費用を奉納されて、五穀の豊穣、領民の安泰・武運を長久を祈願されると共に、神職には、扶持が給された。
また、歴代城主(金森長近公から土井利恒まで、約三百年、十九諸公)は、産土神への尊敬の念深く、先例に従い祭事(元旦祭、祈年祭、藪雨祭、年毎の春秋の例祭、隔年の御山渡り、八朔の角力、新嘗祭等々)が滞ることなく盛大に執り行われた。
なお、隔年の「御山渡り」の祭事とは、亀山に鎮座の社を蛭子山に遷座したことから、元の鎮座地である大野城へ、お迎え申し上げて神霊の御加護を祈願する神事である。
その後、大野町内を渡御されるその行列は、華麗で、町内ごとの御旅所には、飾り物や出し物があって賑やかであったという。
八朔の角力とは、旧暦八月一日に、清龍神社内の国生大明神の祭礼に角力(時に子供角力)が催された。
この行事は、昭和十五年まで続いたが、戦争激化のため中止された。
戦後、氏子青年の努力で復興されたが、已むを得ない事情によって廃れてしまった。
明治五年十一月郷社に列せられ、明治四十一年四月二十六日に神饌幣帛料を供進する神社に指定された。
明治四十二年一月十九日に大野町篠座字花畑鎮座の国生大野神社を合祀し、明治四十二年七月二十二日に大野町西二番鎮座の神明神社を合祀。
同年十一月四日に蛭子神社を合祀した。国生大野神社について『神社明細帳』に「古老の口碑に当郡式内九社の一なりと。他詳ならず」と記してある。
清龍神社と国生大野神社に関する文書は『足羽社記略』『大野領神社書上』『越前古名考』『越前国官社考』『神祇志料』『大日本史』『大野志』『深山木』『越前国名蹟考』『大野藩関係の用留』『式内社調査報告』等がある。
大正天皇陛下の御即位を奉祝して、大正四年に華標一基と六歌仙額(悟雪洞永暉画)とが奉納された。
昭和天皇陛下の御即位を奉祝して、昭和三年に本殿と拝殿との間に御影石の階段(幅二間、三十七段)と敷石(幅一間 長四間)が奉納された。
皇紀二千六百年を記念して昭和十五年に御輿や調度品を新調し、茜川から拝殿までの参道の舗装工事を終えて、五月七日を中日に式年大祭(三十三年毎実施)が執り行われた。
昭和天皇陛下の御在位六十年を奉祝して昭和六十二年に境内社の屋根葺替えと移転及び、境内の整地事業を行った。
今上陛下の御即位を奉祝して平成四年に本殿の鞘囲いと手水舎の改築。
石垣の積替え、玉垣(御影石)の建立などの記念事業を行った。
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