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金崎宮

支部名 敦賀市支部
神社名 金崎宮
境内社名 絹掛神社、朝倉神社
旧社格 官幣中社
郵便番号
鎮座地 福井県敦賀市金ケ崎町1-4
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 花換祭(4月の桜開花期)
御船遊管絃祭(10月20日)
宮司 田村典男
URL http://kanegasakigu.jp/
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 尊良親王
恒良親王

由 緒

 社伝によれば延元元年(1336)4月九州で再挙した足利尊氏が博多を発し京都に攻め寄せた。
同年5月楠正成は湊川で戦死し、後醍醐天皇は比叡山に難を避けられたが、同年10月尊氏の請を容れて京都に還行された。
還行の前日天皇は新田義貞に北陸道鎮撫と官軍再興を命じた。
天皇の第一皇子尊良親王と第六王子恒良親王に従った義貞は湖北の塩津より疲労と吹雪の中を敦賀へと向った。
当時気比神宮の大宮司気比氏治は神領十八万石で、一族一門三百余騎を従え勤王の志も深く疋田あたりまで出迎えた。
氏治は居城の金崎城に両親王と義貞を迎え入れ、杣山城主瓜生保と応援を約した。
一方足利尊氏は高師泰を総大将とし、越前守護斯波高経等諸将が兵六万余で金崎城を海陸から包囲し攻め立てた。
然し金崎城は天嶮要害の上に忠誠な兵馬で固めた為足利軍は難攻した。
死屍は累々と山肌をおおい、とても力戦では攻略できないと判断し遠攻長囲の戦法をとり兵糧攻めをした。
同2年正月瓜生保は里見時成以下五千余を率いて杣山城を出発し救援に向ったが、東郷村越坂で足利軍にはばまれ合戦となった。
多勢に無勢で激戦の末樫曲の地で瓜生保・里見時成等は戦死した。
これより後金崎城への援軍は絶え孤立化した。城中の食料も尽き餓死に寸前となったので、再度杣山城の残兵を応援させ糧道を開こうと考えた新田義貞は弟脇屋義助等7名と同2年2月5日夜城を出て杣山へ向った。
餓死状態の城内を察知した足利軍は3月2日頃より総攻撃を開始、白昼戦夜襲戦を繰返し3月6日には一ノ木戸 二ノ木戸を突破し三ノ木戸に火を放ち城は陥落した。
城内の新田越後守義顕は尊良親王の御前にひざまづき言上後自刃した。
親王はその刀をもって自刃27歳の生涯を封じられた。
藤原行房 里見義氏 武田与一 気比氏治以下在城の将兵三百余人も親王に殉じた。
幼少の恒良親王は気比氏治の子斎晴が小舟に乗せ奉り、その舟綱を持って泳ぎ蕪木浦に脱出し浦人に親王を託した。
再び泳ぎ帰った斎晴は父氏治の横で殉死した。
恒良親王御避難の事は落城の翌日足利軍に知れ遂に捕われた。
斯波高経は城内諸将の首を検し、新田義貞・義助等の首の無いことを怪み親王に尋ねた。
親王は2人の自害後火葬した旨伝え足利軍を欺いたが、その後足利方の府中城攻め等で生存が明らかになり同年4月親王は毒薬をもられ15歳の生涯を閉じられた。
 安政年間(1854~1859)農民により経塚が発見された。
金崎城合戦より五百年を経て維新の大業が成った明治九年経塚出土品から尊良親王御墓所と解された。
やがて「親王さん」と郷人から崇められる尊良親王を金崎山に奉祀する機運が高まり、同23年9月11日内務大臣より親王を祭神とし、金崎の地に創立、宮号を金崎宮、社格は官幣中社に列する旨が達せられ造営に着手した。
同25年11月恒良親王合祀の旨宣下。
同26年4月社殿竣工し5月1日勅使参向5日鎮座祭が斎行された。
同30年4月6日合戦で殉難した藤原行房を始め將士を祀る絹掛神社を創立。
同36年3月28日夜町内よりの出火で本殿以下3棟類焼。
同39年4月流造の神明造りにして現在地に再建。
昭和8年昭和天皇が行幸。
昭和57年社殿改築。
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